| 思考の超越
項目「アイデンティティーの拡張」で議論した通り、あなたは、「私はこんな人間であるはずだ」という観念、イメージと自分を同一化しています。上項では、自分自身を狭めて定義づけしていることを問題視しましたが、ここでは、思考に従属している状態を問題視します。
「思考に従属している」とはどういうことでしょう。例をあげて考えてみましょう。あなたが、「私は家族想いの母親であり、家族もそういう私を愛している。」という自画像をもっているとしましょう。あなたの日常がそのイメージ通りに進めば、あなたは幸福感を感じます。ところが、往々にして、その自己認識には、「私は家族思いの母親でなければならない、誠心誠意、家族に尽くさなければならず、そうでなければ家族は私を認めてくれずに、私は孤独に苦しむ。」という義務感及び脅迫観念が伴います。そして、あなたにとって家事を完璧にこなすことが目標になります。そして、言うまでもなく、観念上の家事の「完全性」が、現実面で物理的に達成されることはありませんから、あなたは常にフラストレーションを感じるようになります。
ここでは、家族を想い、自分を犠牲にして家族に尽くすこと自体を問題視しているのではありません。また、「完璧主義ではいけない」という短絡的な指摘をしているのでもありません。ここで問題視したいのは、あなたは、「私は理想の母親でなければならない」という観念にしばりつけらていることです。あなたは、観念に隷属しているのです。
この状態は、ある意味、「私は〇〇でなければならない」という理想と、現実の自分自身を比べて、そのギャップに苦しんでいるともいえます。しかし、「理想と現実のギャップ」という世間で使い古された言い方に、問題を矮小化しないでください。あなたが「私はこうありたい」と願う、希望を持つこと自体には問題はありません。真の問題は、あなたの現実が理想どおりでないというだけで、あたかもあなたの全人格が否定されてしまうかのように感じる、あなたの感情面のあり方を問題視しているのです。あなたが理想をもったときに、「私は〇〇にならなければならない」という衝動脅迫を感じてしまう点です。
あなたの思考が描く自己の理想像は、観念、絵、イメージ、アイデアでしかありません。ところが、あなたは、その「絵」の通りにならなければならないという衝動に襲われ、粉骨砕身その「絵」のようになるよう努力をします。これは、非常に奇妙です。思考とは、あなたの存在の全体からみると、あなたの一部の機能でしかありません。そのあなたの一部でしか過ぎない思考から、あなたに出された指示(「あなたは〇〇でなければならない」)に、あなたの全体が従っているのです。
あなたは、「思考=自分」というアイデンティティーを持っており、思考の、思考による、思考のための人生を歩んでいるのです。そして、多くの人は、頭脳が描く観念の世界に閉じ込められて、観念の囚人・奴隷となっていることを自覚していません。この状態は、次のように喩えることができます。馬にのったジョッキーが竿とヒモで、馬の目の前ににんじんをぶらさげます。馬は、目の前のにんじんを追うことのみに専心して、前進をつづけます。馬は、えさを得る手段が他にもありえることを感じていません。あなたは、にんじんを追う馬のごとく、自身の思考に従うことにみに専心しているのです。
この観念への隷属から自分を解放することが、仏陀が説くところの「目覚め」です。我々はあたかも眠りながら夢をみて、その夢の中だけで生活をしているがごとく、「思考」の世界の中だけで生きているのです。仏陀の「目覚め」とは、馬の喩えで説明すれば、目の前のにんじんを追うのを辞めて、足場にひろがる草を食べ始める、その視点の変更といえます。あなたも、「思考」への隷属をやめて、その観念的世界から抜け出し、脱思考的生き方をはじめる必要性があります。
思考にあなたの人生を委ねれば、そこに幸せはありません。なぜなら、思考は、世の中の事象全てについて、狭くかつ歪んだ認識をするからです。賢人クリシュナムーティはこう言います。「思考は問題の全体を一挙に完全にみることができません。なぜなら思考は部分的にしか見ることができないからです。しかも部分的な解答は完全な答えではありませんから、当然、思考によって問題が解決されることはあり得ないのです。」
思考が事象の一部しか捉えることが出来ないというのは、単に視野がせまいとか、経験が足りない(続に言う「アオイ」)ということを意味しません。極論すると、思考は事象を何ら認識してはいないのです。哲学の現象論が指摘するとおり、我々が認識していると感じているものは、我々が世界に対して投射している意味であって、そこにあるものをあるがままには理解することができないのです。我々は、我々自身が世界(世の中、リアリティー)に対して付与している意味のみを知覚しているに過ぎないのです。我々がそこにある何かに与えた意味、イメージ、解釈をみているのみであって、そこにあるもの自体を見てはいないのです。
この意味で、東洋、西洋を問わず、いかなる宗教、いかなる賢者も、「世の中の全ては幻である。」と説くのです。「幻である」というのは、あなたの部屋にある机が、蜃気楼のごとく、実はそこには存在しないという意味でありません。机はそこに存在してます。「幻である」というのは、あなたがその机について認識していることです。あなたがその机について知覚していることは、あなたの精神・思考がそれに付与している恣意的で表象的な意味だけであって、机そのものを理解はしていないのです。
あなたは、イメージを作り出し、そのイメージを世界に投射しているだけで、世界を理解はしていません。ですから、そういった精神・思考のあり方、認識の誤謬を頼りに、それを基準にして生きるのであれば、それは、幻想の中だけで生きることを意味します。
逆説的ですが、あなたが「より深く考えて」「より注意深く」生きようとしているのであれば、あなたは「幻想」の中に生きようとしているのであって、幻想の中でもがき苦しむことになります。
私の精神覚醒のプログラムでは、A Course in Miracleの中で取り上げられているプラクティスを題材に、思考を超越する瞑想、脱思考的な精神世界に入る瞑想を、数多く経験していきます。あなたは、思考が作り出す幻想の世界から救出され、思考への隷属から解放されます。あなたの精神は、自由で、平和で、深い満足感で満たされるようになります。
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