エッセイ55 (2018年4月30日著)
たかが親、されど親
魂の観点から見た、親子関係の考察
親を失う痛みを乗り越えるために
著者:加藤優
第三章:親の死に対する過剰反応の例: 筆者加藤は、父親の死にどのように叩きのめされ、
そこからどのように回復したのか?
私の父親が2002年8月に肺がんで他界した時、私は社会的な機能性を失いました。私が彼を殺したのだと深く罪を感じました。私は自分のことを殺人者だと信じて疑いませんでした。外に出ると、皆が私を「親殺し」と指さしてくるという強迫観念に襲われ、私は外出できなくなり、彼の死後、一年あまり、私はシカゴの自宅に引きこもり、社会との接触を失いました。
なぜ、私がそこまで自責の念に駆られたのか、それは、父親が受ける医療行為について、私が全て判断したからです。もちろん主治医と協議しながら判断し、父親自身に最終的な裁可を仰ぎましたが、彼の病状について全ての医学的情報を私に集中させて、一義的に、私がまず方針を決める体制をとっていたのでした。
2002年初頭、最初の診断がついた段階で、右肺下部の腫瘤径が約10センチ、右脳に転移が認めらる末期の肺がんです。一般に腫瘤径が3センチ以下であれば手術による摘出が可能と考えられていますので、癌が見つかった時点で、いかに彼が深刻な状況にあったかが推し測られます。ありとあらゆる検査データが、彼の余命が数か月であることを示しているので、それらのデータを本人に示して、彼に判断させることが出来ませんでした。
私が加藤家の代表として、全てのデータに私が目を通し、その上でどんな延命治療をするのかを、私が決めたのです。入院して1週間後にとった胸部のレントゲン写真で、胸内が胸水であふれ、写真が真っ白になり、両方の肺の像が全く映っていないのを、私が目の当たりにした時、そのあまりの衝撃に、言葉が出なくなったことを、今も鮮明に覚えています。そんな検査データを、彼に見せるわけにはいかなかったのでした。
特に彼の生死を分けたのは、肺から胸骨外部の筋肉に転移した腫瘍をどうするかの判断でした。心臓の位置の胸の筋肉に転移した腫瘍は、腫瘍径が20センチ以上に膨れ上がり、そのままに放置すれば、心臓の活動に影響があるかもしれない状態になりました。そこで、次の判断が求められました。(1)何もしない(2)放射線を姑息照射(その部位だけに照射)する(3)全身化学療法(抗がん剤治療)。この3つから選ばなければならなかった。そして、私は、(2)を選んだのです。
照射域を限定した放射線療法は、その転移した腫瘍を根こそぎ焼き殺すことに成功はしました。特に、彼の肺がんは、放射線に対する感応性が高く、予定していた線量の半分で、胸の中央に転移した部位の癌は死滅しました。しかし、皮肉なことに、それが彼の死期を早めたのです。焼け死んだ腫瘤が腐りだし、その部位を外科的に手術で除去せざるを得なくなりました。彼の胸の表面、縦・横20センチ四方ほどの筋肉組織が失われ、彼の肋骨がむき出しになり、外からそれが丸見えの状態になったのです。これは、皮肉な結果でした。その腫瘤を外科手術で摘出するのは、彼がもう耐えられないだろうから、放射線治療を選んだにも関わらず、結果は同じことになってしまったのです。
彼が健康体なら、臀部の皮膚を移植しそのむき出しの部分を埋めるのですが、彼の弱った体力からそれをすることは出来ません。移植した皮膚が定着化しないし、皮膚をはいだ臀部の傷が治るのも期待できません。肋骨がむき出しになって日々を過ごした結果、彼は感染症を患い、日々、かなり強力な抗生物質による治療が行われました。最終的には、感染症が引き金になり、腎不全を起こし、絶命したのです。そのきっかけとなった放射線治療を決めたのは、ほかならぬこの私です。そして、私は、あまりに重い自責の念に、文字通り、押しつぶされてしまったのでした。
父の死に際し、私が彼を殺したという自責の念、その衝撃はあまりにも強烈で、私は社会的な生活を送れなくなりました。そこで、私は何もせずに、ただ過ぎゆく時に身をまかせ、ただひたすら、その傷が癒えるのを待ったのか?答えは、否です。もし、私がそのときに、何もしなかったのなら、私は、その引きこもりの状態を、今も抜け出ていないことでしょう。
では、私は何をしたのか?私は、私の師匠達の個人セッションを頻繁に長期間、定期的に受け続けることで、私の潜在意識の解析をしたのでした。仮に、私が父親を殺したのが真実だとして、なぜ、私自身が、外を歩けなくなるほどの、壊滅的なダメージを受けたのか?なぜ、父の死が、私にとって、「そこまで」堪えるのか?それを、師匠達の助けを借りながら、私の深層心理の動きを追ったのでした。
その解析の過程で、私の深層心理に、とても歪んだ幼少期の傷を見つけ出しました。幼少期、私は、アルコール中毒の父親から、殴られ蹴られ続けていました。ひどくせっかんされて、気絶したことすらありました。自分の身体が宙を舞うほどにはたかれて、「殺される!」と自覚した瞬間さえありました。とはいえ、当時、私は父親を恨んだことはありませんでした。しかし、彼をひどく恐れていたのは確かです。何の気はない、普通の一言が、彼の逆鱗に触れて、そして殴られてしまうのですから。例えば、「ちょっと食欲がないから、晩御飯のおかず残すね」とでも言おうものなら、「せっかく準備したおかずを無駄にしやがって、このバカもの!」と揶揄されて、叩かれるのです。いつ父親が怒り出すのか、予測不可能で、私は毎日怯えていました。
そんな毎日を過ごした結果、次の思いが、私の深層心理に刻印されました。「私の父親が、私をいい子と承認してくれる限り、私は安全である」と。これがいかに歪んだ心理メカニズムであるかは、言葉にするまでもないでしょう。父の暴力が、脅威の源であったがために、私にとっては、父親が機嫌がいいことが、私の身の安全を保障するものとして、感じられるようになってしまったのです。
すなわち、父親は、私にとって脅威の源であり、かつ、安全の源であったのです。彼が私を守ってくれるから、私にとって安全の源であったのではなく、彼が脅威の源であるがゆえに、彼が機嫌さえよければ、彼の暴力にさらされることなく、私に安全がもたらされる、と自動的に思うようになりました。いつからしかか、自分がいい子で、彼の機嫌がいいのなら、私の身は安全な場所に置かれる、そのように思い込むようになりました。
ですから、父の死は、私にとって、私が安全を得るための方針・方策を失うことを意味しました。自分を守ってくれる人がいなくなったから、不安を感じたのではなく、安全を得るためのスキームを失ってしまったがために、自分がひどく危険な状態にいるように感じられてしまったのです。私の深層心理は、父のご機嫌さえとれれば、自分(加藤)は安全だと、信じこんでいたのです。そのご機嫌をとる対象を失い、どうすれば、自分が安全になれるのかが分からなくなり、パニックになったわけです。
これこそが、私が、父の死後、外出不能になった根本原因です。顕在意識(意識の表層)では、世間の人が私を、「親殺し」として批判することを恐れていたのですが、深層心理では、私は、あたかも、丸腰でアフリカのサバンナに置き去りにされて、肉食獣にでも囲まれているかのような、戦慄を味わっていたのでした。それで、家の外に出られなくなったわけです。
「自分が父親を殺した」という自責の念と、無意識の内の「私の安全を保障してくれる存在が消滅した」という想いが、私の心の中で、相乗効果を起こしていたことが分かったのです。自責の念が、ランプの炎だとするのなら、安全の源の消失の想いは、ランプの油に相当します。私の安全を保障する父親が消滅したので、自分は危機にさらされているという感覚(=油)が、まるで、火に注がれる油のように、私の自責の念(=炎)を煌々と燃え上がらせたのでした。ですから、その油さえ取り除くことができれば、自責の念も軽くなっていくことが予想されました。
上記の状態は、どうすれば、私が「安心」を感じられるのか、それについて、私が困惑した状態にあったとも表現できます。理性的には、父親がどうであれ、私は、成人として、自分の力で、自分自身の安全を得ることが出来ると理解しています。しかし、潜在意識では、自分が安全であるためには、父親が怒っていないことが必須であると感じていたのです。
そんな理性的理解を吹き飛ばしてしまうほどに、私の奥底は不安で怯えていたとも言えます。理性的には、父親を殺したのは癌であって私ではなく、私は私自身の力によって自分の安全を確保できる(例:勤勉に働き収入を安定させる)ことを理解していました。しかし、父親を殺したのは私であるという自責の念と、父亡き今は、私は危機的状況にあるという戦慄が、「感覚的に」私を支配していたのです。
この感覚的な支配は、喩えれば、夜道を一人で歩いているときに、そこに何も怪しげなものは存在していないと理解していながら、面妖な影の形や、異様な物音がきっかけとなり、そこに居るのが耐えられないほどに、戦慄が走っている状態、そんな状態に相当します。夜道の恐怖が、あなたの内側を占拠し、鳥肌が立ち、小走りにその場を立ち去ろうとする瞬間。そんな時に感じている恐怖。そんな感覚で、当時の私の内側は占められていました。だからこそ、外出することが出来なくなったのでした。
上記の深層心理のメカニズムが分かれば、当時、私がなぜ全身全霊を込めて、父親を救おうとしていたのかが理解できます。私は、アメリカでの大学院を休学し、日本にかけつけ、彼の傍に寄り添い、彼を助けるために東奔西走していました。
例えば、彼が入院していた埼玉県川越市の病院で採血した彼の血液を、私が、東京信濃町のリンパ球療法の研究所に提出し、そこで培養したリンパ球の点滴パックを受け取り、それを川越市に持ち帰り父親に点滴してもらうのです。血液と点滴パックの運搬を担当していたのは私です。それがいかにストレスのかかるものであるのかは、言葉にするまでもありませんよね。いくら血液をクーラーボックスに入れ冷やしながら運搬しているとはいえ、時間がかかり過ぎれば、彼のリンパ球は死んでしまいます。私は、彼の命を運んでいるという風にすら感じながら、往復4時間の道程を全力で駆け抜け、私は、文字通り汗だくになっていたのでした。2002年の夏、私は、そんな毎日を過ごしていました。
父と母の間の夫婦仲が冷め切っていたので、母親は、「本当は面倒みたくないけど、体裁が悪いから(後で批判されたくないから)見なければしょうがない」とぼやきながら、父親を看病していました。長男は、父親からの暴力を受けた結果、彼は父親と疎遠になっていましたので、「病院の先生の指示通り治療して、それで死んだら仕方ないよね」と、診断がついたときから、父親のことを冷たく突き放し、時々、お見舞いにくるだけです。
加藤家では、僕以外に、父親に助かって欲しいと願っている人が居なかったのです。私は、彼らのような、突き放した態度がとれませんでした。彼らの態度と比較すれば、いかに、私自身が、父親を救おうという情熱に駆り立てられていたかが分かります。
父親を必死に救おうとしていたのは、一義的には、私が父親を愛していたとは言えるのですが、二義的には、父親を失うと、自分の安全の源が消滅してしまうと、私には感じられていたからだったのです。正直に打ち明けますが、私は、自分を救うために、父親を救おうとやっきになっていたのでした。それが、彼の死後に分かりました。
私の深層心理で、父親を安全の源であると見做していたがゆえに、父の死後、私は極度の不安に襲われ、社会生活が出来なくなりました。それが分かれば、その後の、私への治療方針は明確になりました。私の父親を、私の安全の源であると見做している精神構造を改善するべく、そもそも、私の父親が、私の安全を保障する存在ではないことを、咀嚼することが必要でした。
そして、もっと本源的なことも問い詰めなければいけませんでした。そもそも、安全とは何か?どうやって、自分は安全になり安心を感じることが出来るのか、という問いです。
私はどのように「安心」を感じることができるのか?それを模索するのに、私は、私という存在そのものを、師匠の助けを借りながら、味わいつくそうとしました。だってそうですよね、自分という存在が何なのかを把握しないのなら、自分がどのように「安心」を感じることが出来るのかは、分からないですよね。自分を知らずに、自分の安心を求めるのは、自分が鳥なのか、馬なのか、蝶なのか、それすら知らずに休憩する場所を探すようなものです。鳥なら、木の枝で休めばいいし、馬なら、草原で休めばいいし、蝶なら、木の葉で休めばいいです。あなたは、あなた自身を知らずに、安心を求めることが出来ますか?
私の師匠達は、クライアントである私の通常の意識を、私の「存在の根幹」に接触せしめ、それを私に感じさせることが出来るという、稀有な才能を持ち合わせています。(ちなみに、私も、全く同じ方法で、私は私のクライアントを助けています)。
「存在の根幹」とは、人間の無意識の領域の更に奥にある、人間の意識を生成せしめた源であり、仏教が真我と呼ぶもので、私はそれを魂と呼び、欧米の神秘主義者たちは、True-SelfもしくはHigher-Selfと呼びます。それは、私の「いのち」のきらめきそのものです。それは、私の生命力の源であるだけでなく、インスピレーションの源であります。
それは、次元をまたいで、私という個人を超えて、無限に広がっているがゆえに、それに触れて、それを感じることが出来れば、私は、深い安心を得ます。無限の大きさを有した精神が、一体何を恐れる必要があるのでしょうか?
それは、常に静けさを保っています。そこにあるのは、冷たさをもった静けさ(例:南極の氷に囲まれ生命活動が無いが故に静かである状態)なのではなく、温かさを伴った静けさ(例:春の日差しの下、ありとあらゆる動物が昼寝をしているかのような状態)であります。その温かい静けさが、私の内面奥深くに存在することを、師匠達とのセッションを通じて、味わい続け、私は癒えていったのでした。
個々のセッションを通じて、私は、「父親に認められなければ、私に安全は無い」という、誤った思い込みを消去していきました。私は、「本当の自分」を味わいつくし、私の安心感の原資は、私の内側にのみ存在している確信を得たのです。私の外界の存在が私を認めてくれるから、私が安心できるのではありません。私が、私の魂を経験するのなら、外界の誰かが私を認めようが認めまいが、私を評価しようがしまいが、私を愛そうが憎もうが、私は、私という存在が無限に広がっていて、万物と一体化していることを感じて、安心するのです。
私が父との死別に際し、どのような過剰反応を起こし、それをどのように乗り越えたのか、ご理解いただけたでしょうか?私は、幼少期に彼の暴力にさらされた結果、無意識の内に、彼を自分の安全の源であると見做すようになりました。父親を亡くした瞬間、私には、それが、自分の安全を保障する存在を喪失したことを意味したのでした。飢えた狼が徘徊する森の中に、一人取り残されたかのように、私は戦慄を感じました。そして、「親を殺した」という自責の念も相まって、私の意識は破たんし、一度、社会的機能性を完全に失いました。
その過剰反応による影響を乗り越えるために、私は、自分を見つめ直し、自分という
存在の深みを味わい続け、そして、自分の魂を味わえるまでになりました。自分の安全の源は、私の内側にあることを痛感し、文字通り、私は、私自身を取り戻し、社会復帰できるようになったのでした。
この私自身の体験は、一つ重要な心構えを示唆します。親を失う痛みについて、「時が癒やしてくれる」のを待つしかないのか?この問いかけへの答えは、第一義的には「NO」となります。自身の痛みに全く向き合わず、何もしないのなら、過剰反応を起こすメカニズムが存続し続け、あなたは苦悶の中でもがき続けます。過剰反応を起こしている心のメカニズム、深層心理下のプログラムやパターンは、それを解消しようとしないのなら、それは、我々の心の中に存在し続け、我々を苦しませ続けるのです。
ですから、私が、もし、私の内側に根付いていた「父親=安全の源」という誤認識に対して、何もしなかったのであれば、私は、社会復帰すらかなわなかったことを、確信しています。
とはいえ、その誤認識を消去するために、私は、何か特別なことをしたわけではありません。私は、本当の自分を、ただひたすら、味わっただけです、師匠達の助けを借りながら。何か、特別な心理学的プログラムを消化したわけではありません。肉親の死に関する文献を読み漁ったわけでもありません。私がしたのは、自分に向き合い、自分の中に、自分の意識を落としこんで、自分の内面が示すものに、自分自身を委ねることでした。何か特別の行為をしたわけではありません。自分の内面からの開示を、それがなんであれ、開示されるもの全てをただ受け入れたのです。自分という存在が映画なのだとしたら、私は、その映画をただひたすら、一日何時間も、毎日見続けただけなのです。
自身を内面に「委ねる」ことで、精神状態が変容していくことは、親を失った「痛み」を、「時の流れ」に「委ねる」ことに、相通じるところがあります。ですから、この意味において、「時が癒してくれる」ことに期待することは、あながち的外れなのではありません。この文脈において、親を失う痛みについて、「時が癒やしてくれる」のを待つしかないのか?この問いかけへの答えは、第二義的には「YES」となります。
何か特別なことをしなくても、あなたがあなた自身を深く味わいつくすのなら、あなたは癒えるのです。
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